応分の弁別・洞察が備わっていれば、明文などは無用。これは、他者との最小単位の交わりであるそれぞれのご家庭における明け暮れに重ねてみれば、容易に納得して頂けるものでありましょう。
だが、その輪が広がるにつれ多様性は増し、それに対応するためには最低限のルールの明文化ということが求められてくる。子供が長ずるにつれ、あるいは、細君が外の世界との関わりを多く持つようになるなどにつれ、家庭内にざわつきが生まれがちなのも、それの顕れとも言えよう。
さて、明文の頂点たる憲法が規定する政治・国会の章には、全103条中24条が充てられている。しかし、それを読み進めて行くに はて?の念に襲われるのは何故だろう。
もちろん、これで十分、一指たりとも触れる必要なしの立場もありましょう。だが、物事を動かすその原動力は人間である。憲法を貫く理念の具現もまた、人の力に依る。その人・議員の選出に関する実質的事項、定数、資格、選挙に関するものは全て法令に譲っている。
もとより、弁別・洞察力に優れそれを自他共に許す人達が選出されてくるという、大前提はありましょう。しかし、某テレビの番組で、なんとかチルドレンを指して「どこからか拾ってきて名簿に載った人達」と評していた野党議員がいた。
「選挙区」もまた大中小思いのままである。最も滑稽なのは、小選挙区と比例代表出馬の交互たらい回しを「コスタリカ方式」と称する無恥であろうか。国会は唯一の立法機関とされている。したがって、法律の定めに委ねるものは、立法に携わる人達に直接関わることは除かれてしかるべきではないのか。
この憲法が、その制定において如何にあわただしかったか。3月2日案なるものがGHQに拒否され、GHQに示されたものに依拠して出来上がったのが3月5日案。当然英文を訳しつつの作業であったろう。また、議会審議の過程での時間はあったろう。しかし、動天驚地の中でのこと、至らぬ事柄多々はあり得ることとして、それを補い合わせてより良きものをの60余年であったか。
今、焦眉の急の暫定税率やら特定財源やら。弁別・洞察力に優れそれを自他共に許す人達が担ってきた結果としては、いかにも寒々としているこの国の今である。
「護憲+BBS」「あらまほしの交差点」より
百山